「たとえ明日、世界が終わるとしても、それでも今日、私はリンゴの木を植える」という言葉は類似名の書籍が現代の作家により出版されたり、作家の開高健が色紙に書いていたとして知られる。もともとは宗教改革者マルティン・ルターの言葉だと伝えられる。
この言葉にルターがどのような考えを込めていたのかは、ルターが直接に言及した文献が残っていないので、想像するしかない。宗教的には、世界の終わりが神の裁きの日を意味し、リンゴの木を植えることは人間が信仰を堅持することなどと、キリスト教の枠組みで解釈するべきか。
神の恵みに対する深い信頼感があるから、世界が終わるとしても安心して生きることができるとの宗教的な確信をこの言葉は表しているとも解釈できる。この言葉はまた、第二次大戦で敗戦したドイツで共感されたという。そこでは宗教的な意味よりも、困難の中で生きざるを得ない人々に対する慰めと希望を持って生きることを励ます意味合いで使われたのかもしれない。
この言葉は宗教から離れても、人々に訴えかける力を持っている。人間は不死の生物ではないので、いつか死ぬ。それは明日かもしれない。世界が終わるとは個人にとって死ぬことである。だからと享楽的に生きることも一つの人生だろうし、生きる意味や価値をしっかり見いだす人生もあろうし、過程に奮迅して生きることも一つの人生だろう。
世界が終わる日がいつなのか、人間は知ることはできない。だから、世界は明日終わるとの意識を持って生きることが大切なのかもしれないが、そうした意識は長々と続く平凡な日常に埋没するものだ。世界の終わりから逆算して生きることなど、宗教者以外には難しいだろう。
世界の終わりが明日だと知っていてリンゴの木を植えることと、世界の終わりがいつなのか知らずにリンゴの木を植えることは、行為として同じでも意味は異なる。後者はリンゴの実を収穫することを期待しているが、前者は収穫できないことを承知した行為だ。
収穫できないことを承知で、それでもなおリンゴの木を植えますかと、この言葉は問う。植えるべきリンゴの木とは何か、人により異なるだろう。自分は、植えるべきリンゴの木を持っているのか、それは何か。世界が終わろうと終わるまいと、自分のリンゴの木を自分は植える……そんな年にしたいものです。
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