2015年4月25日土曜日

残虐性の意味


 後藤健二氏を拘束した「イスラム国」が、殺害して首を切断した映像を公開したことで、その残虐性は日本でも大きく印象づけられた。日本人人質はいなくなったが、「イスラム国」の残虐性を示す捕虜殺害の映像の発信は続いている。手を縛ったままビルの屋上から突き落としたり、群衆に石を投げさせたり、銃殺や刺殺を少年兵にさせたりする映像が毎週のように公開されている。

 人間を殺害してはいけないと考えるなら、どんな方法であろうと人間を殺害することは全て残虐だ。だから、国家が行う死刑で、銃殺や絞首刑、電気イスなどよりも、麻酔をした後に薬物注射により殺すことが残虐ではない……とはいえまい。麻酔をしてからの薬物注射による殺害のほうが「苦しまずに死ねる」かもしれず、死刑を容認する側の良心の負担が少ないだけだ。

 世界では、人々は殺害され続けている。内戦が続く国もあり、外国軍が介入する地域もあり、戦争はなくても自爆テロが起きる国もある。そうして人々は様々な状態で殺される。「イスラム国」による断首などの殺害方法が残虐で、「正規」の国家による様々な殺害が残虐ではないとはいえまい。違いは、「イスラム国」は残虐性をアピールするが、「正規」の国家は残虐性を隠す。

 残虐性の受け止め方は、地域や文化によって変化する。人間の首をナイフでかき切るという殺害方法に日本人は驚くが、遊牧の文化が色濃い地区の住人なら、あれは家畜を苦しませずに殺すやり方から来ていると受け止めるだろう。石打ちによる処刑は現代でも行う国がイスラム圏にあるというから、驚かない人々もいるに違いない。

 残虐性の受け止め方には、時代による変化もある。殺害した遺体から首を切断するということは、中世の日本では合戦の時などに「御首頂戴」などと言いながら行われていたそうだし、切断した首を出すのは現代でも歌舞伎ではお馴染みの演出だ。処刑した罪人の首を曝すことも行われていて、近藤勇は板橋で処刑され、その首は京都に運ばれて梟首された。

 人道主義などの影響を受けた現代世界では、残虐な殺害方法や、遺体を損傷することは狂気の為せることと受け止めたくなる。「イスラム国」のメンバーが皆狂っているなら、彼らの所業も少しは“納得”しやすくなる。だが、正気な人間でも残虐になることができることを日々の犯罪により知らされるし、理性的に大量殺害と遺体損傷を行ったナチスドイツを狂気と片付けることはできない。

 何を残虐とするかは、主観の影響が大きく、個人による違いや文化による違い、地域による違いが大きい。人間の尊厳についての見方がそれぞれ異なるところから来ているのだろうが、報復感情などを尊重しすぎると、相手への処罰として残虐性が増すことになる。内に潜む残虐性を人間はまだ、制御できるようになっていない。

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