2014年7月9日水曜日
逆かもしれない
立法府が関与しないまま政策の重大な変更が、与党内の協議を経て、内閣による閣議決定だけで行われた場合、その変更に反対する側から、民主制の否定であるとか、憲法を軽んじるものだなどの批判が沸き起きる。そうした批判の中には「日本の民主制と憲法の本質的脆弱性」の問題提起もあったりするが、この「憲法の本質的脆弱性」については異論も出そうだ。
紙に精緻な印刷を施したものが紙幣として、例えば1万円札なら1万円分の交換価値を持つのは、その紙切れを皆が紙幣だと認めるからだ。そうした交換価値を支えるのは紙幣を発行する政府への信任であり、皆が互いに紙切れを交換価値を持つ紙幣と信じて使うからだ。だから、政府が信用されない国では人々は自国紙幣よりも、例えばドル札のほうを重宝したりする。
憲法も同じようなもので、ある法律が憲法だとして通用するのは、国家と政府への信任があり、皆が憲法を最高法規として尊重するからだろう。だから、軍が頻繁にクーデターを起こして、そのたびに憲法を変えたり、国内に深刻な対立構造があって、政権が変わるたびに憲法をいじることが常態化しているような国では、人々は憲法を絶対的な存在とは見ないだろう。
憲法の本質的脆弱性の最たるものは、皆が憲法を最高法規と見なさず、それどころか憲法を含めた法体系を軽んじるようになることだ。今回の議論で出てきた脆弱性の指摘は、人々が憲法を軽んじるようになったということではなく、憲法解釈に関わる重要な政策変更を内閣の判断で行ったということらしいので、憲法の脆弱性といっても様々な態様があるようだ。
一方で、内閣が閣議決定だけで重要な政策変更をせざるを得なかったのは、憲法が脆弱だからではなく、逆に、憲法が強固すぎたからだともいえる。憲法の条文を変更して政策変更を行おうとしても、一字一句も変えることができない状況が現実。国際情勢などの“圧力”を受けて新たな対応策をとらざるを得なくなった内閣は、解釈の変更を言い立てて政策変更したとの見立てだ。
憲法が強固すぎて一字一句も変えることができないというのは、現憲法の「特異な脆弱性」かもしれない。憲法改正を主張する側は現憲法全体に否定的だが、出てくるのは“復古調”の憲法案だけ。いわゆる護憲派は9条に限らず改正そのものを拒否する。どちらも硬直度では似たようなもので、現憲法を大事にしながら、時代の変化に合わせていく努力が皆無だ。
日本で憲法に関する議論が硬直しているのは、日本という国のあり方に関して、人々に共有する価値観がないからだろう。日本はどういう国であるべきかという理念が共有されていないから、国家権力のあり方についても共有する見解がない。つまり、日本という国がどうあるべきかという具体的な理念についての広範な議論を重ね、共有できる部分を抽出していくことによって、現憲法の特異な脆弱性は解消されよう。道のりは遠いが。
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