アートに政治が持ち込まれた時には、政治的な力学が勝敗を決することが多い。ここでいう政治とは必ずしも国家権力や政治家、政治団体などに限定されず、その社会での善悪などの価値観、避けるべきものとされる行為や考えなども含む。社会によって、政治的に嫌われ、時には抑制すべきとされる表現は異なる。
だから、自由な表現は権利だとアートが主張しても、社会の中での表現活動に何らかの制約が伴うのは日本に限らない。例えば、現在の西欧で、LGBTの人々を揶揄する表現やCO2排出増加による地球温暖化論を否定する表現、プラスチックの大量利用は人々の生活に恩恵をもたらすとする表現などは、アートの表現だとしても批判を浴び、時には激しい抗議活動を招くかもしれない。
アートには自由な表現が欠かせないが、作品の価値は人々(社会)が決める。表現のみで作品の価値が判断されることがアートには望ましいだろうが、時には作者の制作の意図を含めて判断されることがある。作者も、属している社会にウケることを想定して作品の表現を工夫したりし、政治的な課題に触れた作品は「問題意識が高い」などと賛美されたりもする。
そうした政治的な作品は、アートとして凡庸な表現であっても、作品が表現している何らかの価値観が受け入れられる社会では賞賛されようが、価値観が異なる別の社会では批判される。作品の表現ではなく、作者の制作意図に込められ、作品に表現されている政治的な主張が強く見えすぎて、アートとしての作品を霞ませる。
政治的な主張を取り去ると、凡庸な作品だと見えてしまうアートがある。優れた作品にだけ表現の自由があるのではなく、凡庸な作品にも稚拙な作品にも表現の自由はあるのだが、アートとして同列に扱うべきではないだろう。ピカソの「ゲルニカ」から政治的な問題提起を取り去ったとしても優れた表現として残る。
政治的な主張だけで成立しているような作品が、その政治的な主張が一般的ではない社会で批判されるのは当然の成り行きだろう。それを、表現の自由の問題と見るかどうかは政治的な立場により異なる。無制限に表現の自由は認められるべきだという考えもあろうが、その場合は自己の政治的な見解に反する表現も認めなければなるまい。
政治的な問題となることで特別視される作品が、その表現の凡庸さが政治的な騒動によって覆い隠された。アートに政治的な主張があってもいいが、政治的な主張を取り除けば凡庸な表現だけが残る作品はアートとしての評価は低い。過激な表現も過激な主張もアートでは容認されるが、凡庸な表現はアートにはふさわしくない。
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