2019年8月21日水曜日

中国の核武装

 社会に存在する具体的な問題をめぐる議論は、大きく3つに分かれる。第一は、政治的な立場などに基づく主張で、社会情勢や世界情勢が大きく変わると陳腐化する。第二は、原則的に考え、歴史的な批判にも耐える普遍的な論であることを意識する。第三は、弱者または強者に肩入れする感情論。

 例えば、半世紀ほど前に日本で人々が原水爆の禁止を求める署名運動を始め、原水爆禁止運動となって広がり、世界大会の開催まで高揚したが、やがて分裂した。安保を巡る対立で保守系が離反し、残った革新陣営内で、ソ連の核実験を認めるかどうかで対立が先鋭化し、分裂した。

 原水爆が非人道的な兵器であり、人類に対して2度と使われてはならないだろうから、原水爆の使用禁止論には普遍性があろうが、核兵器保有国が核廃絶に動く可能性は非常に小さく、逆に核兵器を保有しようと欲する国は少なくない。日本における原水爆禁止運動には普遍的な意義があったが、政治的には無力だった。

 中国の核兵器保有に対する態度も分かれた。半世紀ほど前に中国は自国の核兵器を、ソ連と米国の核兵器に対する対抗手段だと主張し、「核兵器を絶対最初に使わない。核兵器で攻撃されない限り中国の核兵器を使うことはない」とした(引用は全て『過客問答』加藤周一著から)。

 中国の主張に対して日本では、「あらゆる国の核兵器に反対で、核兵器反対はわれわれの悲願だ」と知識人は言い、サルトルは「米国とソ連が強力な核兵器を持っていて、しかもそれを中国国境に配置している時に、中国が核兵器を持つことがいけないとどうして言えるのか」と言った。

 米国の核兵器は悪だがソ連の核兵器は許容されるとか、米ソの核兵器は悪だが中国の核兵器は許容されるなどという論は、政治的な主張だ。政治的な主張だったから、世界情勢が大きく変化した現在、中国の核兵器を容認する主張に共感する人は世界に多くはないだろう。とはいえ、核兵器廃絶は人類の悲願だなどと情に訴えたところで現実を変えることはできなかった。

 原水爆禁止運動が広がったのは、各国が核兵器を実戦で使用することによる人類滅亡の危機感に現実味があったのだろう。だが、この半世紀に米国もソ連も中国も戦争を行ったが、核兵器を使用しなかった。核兵器は現実には使用できない兵器だった理由は様々だろうが、原水爆禁止運動の成果でないことは確かだ。

 核兵器は、人類に対する脅威であるとともに、保有する各国にとっては極めて有効な武器である。政治的な論で各国に核兵器を放棄させることはできまいし、人類の生存を脅かす大量殺戮兵器であると各国に放棄を説得することもできないのが現実だ。核兵器を国家が保有するデメリットが現実には希薄であることを踏まえた核兵器廃絶論はまだ現れてはいない。

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