1789年7月12日、国王が「軍隊によってパリを制圧するのではないかという恐怖心」に人々はとらわれ、「武装した民衆が街を駆けまわり、パリは騒然とした状態」になり、同7月14日、人々は廃兵院で大量の銃と大砲を手に入れ、さらに武器を手に入れようとバスチーユ監獄に向かった。(引用は全て『物語 フランス革命』安達正勝著から)
同10月5日、武装した「8000人のパリの女性たちが雨の中をヴェルサイユに行進」して来て、国会の議場になだれ込み、パリの窮状を議員に訴えた。2万人の国民衛兵隊と1万人以上の武器を持った男たちも続いて来て、国王一家はパリに連れてこられた。議会もパリに移って来て、「革命を軌道に乗せた」。
1792年8月10日、「パリの民衆は連盟兵団とともに、チュイルリー宮殿に攻め寄せ、守備についていたスイス人傭兵部隊との銃撃戦の末に、宮殿を制圧」した。女性も多数参加していた。「国会は民衆の勝利を見届けたあと」王権停止を宣言、「これ以降はその社会的実力が認められて民衆が革命の舞台に躍り出てくる」。
1793年6月2日、「数万人の武装した民衆が国会を包囲する中でジロンド派の主だったメンバーの国会追放が決議」され、革命の主導権争いに決着がつき、「ジャコバン派の天下になる」。同9月5日、「パリの民衆が武装蜂起して国会を取り囲み」、この民衆蜂起が「ジャコバン革命政府の形成を加速化」させた。
1795年の春、「生活の苦しさに耐えかねたパリの民衆」は2回蜂起したが、「リーダーたちが恐怖政治期にギロチン送りになっていたため、かつてのような威力を発揮できず」鎮圧された。「これがフランス革命における最後の民衆蜂起」だった。その後は「民衆に代わって軍隊が革命の動向に大きな影響力を持つ」ようになった。
報道によると、フランスで蛍光の黄色いベストを着用した参加者は「マクロン、辞めろ」と口々に叫びながら行進し、断続的にフランス国歌の合唱が起きたりしながら方々でデモをし、増強された治安部隊はデモ隊の進路を塞ぎ、放水し、催涙弾を投げ、参加者を拘束した。
労働者の解雇をしやすくし、社会保障費の国民負担を増やす一方、法人税の減税や富裕税廃止、投資促進などを進めてきた仏政府の構造改革路線が、現代の民衆“蜂起”によって路線修正を余儀なくされている光景は、革命を経た共和国の伝統とグローバリズムの衝突でもある。
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