GHQの指令で原爆投下の1カ月後に広島に入った日米合同調査団に、東大医学部附属病院に当時所属していた加藤周一氏も日本側メンバーとして加わったが、広島の第一印象は「広島はこんなにも平らだったのか」だったという(「ヒロシマ・ナガサキ50年」=『加藤周一セレクション⑤』所収。以下の引用は同書から。適時省略あり)。
「建っている家が1軒もない。少しばかりのコンクリートの建物が一部残っていたけれども、それ以外は広島の街は全く平らになっていた。高いものがなくなってしまい、異常なほどに平たい土地になり、残っていたのは道路網と川や運河だけだった」
「道路には子供も含めて彷徨っている人たちがいた。子供も大人もケロイドで覆われていた。原爆の熱で皮膚が破壊された症状だ。女性は布を頭にまとっていた。頭髪が抜けていたからです。これは放射線障害の典型的な症状である脱毛症だった」
「患者は三種類に分けられた。原爆の中心から1キロぐらいのところでは人々は瞬時にして消えた。炭化した。その周囲には身体的な障害を受けた人々がいた。瓦礫によって怪我をした人、熱症を受けた人、原爆の熱によってケロイドができたり火傷をした人。皮膚が熱のために大きく変形した人もいた。第三番目は放射線による障害。まず発熱があり、それから脱毛。
主要な違いは血中の変化だった。循環血にではなく骨髄の破壊が起きた。骨髄は造血組織で、骨髄によって血液が造られている。放射線がまず影響を及ぼすのは若い細胞、未熟な細胞で、これらは骨髄の中で造られている」
「骨髄における大きな障害によって奇妙な状況が生まれていた。広島市の周囲や近郊の病院には多くの患者が集まっていて、最初の頃はほとんど症状が出ておらず、兆候がなく、そこで、もう大丈夫だと自分の家や田舎に帰った人もあった。
それらの人々の追跡調査を1カ月くらい行った。ある人は被爆後1カ月半ほど経って出血が始まり、軽い熱が出てきた。骨髄穿刺を行って骨髄の標本を採り、検査した。わかったのは、おそらく快復は見込めず、亡くなるだろうということだった」
「最初は軽い熱や軽い出血だが、半月経ったら非常に重篤な症状が出始める。これが放射線障害。その場合、生死の確率は五分五分だろう。医学的観点からすれば、原爆は時限爆弾で、『よくぞ生き残った』と家族がお祝いをした人でも2カ月後には亡くなる。効果歴な救済の方法は全く何もなかった」
「放射線、放射能による障害は、その後の何年も調査や観察を続けて、ガンの発生の頻度、白血病の発生の頻度が統計的にはるかに高くなることがわかった。放射能は生殖器に影響を及ぼすので奇形の問題も出てくる。皮膚、頭髪、骨髄に放射能は大きな影響を及ぼす。この三つが放射線障害の中心となり、それによって時限爆弾となる」
「非常に残虐な、残酷な状況だった。『よくぞ生き残った』とお祝いをされた人が、『半月後あるいは1カ月後か2カ月後に亡くなるだろう』とは家族にとても言えなかった。これが原爆投下後の広島で、非常に残酷な状況がそこには繰り広げられていた」
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