亡くなる前に経典以外の持っていた書物などを全て焼き捨て、「葬礼の儀式をととのふべからず。野にすてて、けだものに施すべし」と言い残したという一遍上人は捨聖とも呼ばれた。著作は残っていないとされるが、門下が記した一遍上人法語がある。一遍上人がすてたのは書物だけではない。
その法語に「念仏の行者は智恵をも愚癡をもすて、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、一切のことをすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内にとかくの道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず、厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし」とある。
智恵も愚癡も善悪の境界も貴賤高下の道理も地獄を恐れる心も捨て、一切のことを捨てて唱える念仏こそ弥陀超世の本願にかなうというのは精神世界のことだ。だが、無常を悟っていただろう一遍が、死期を前に書物など一切を焼き捨て、葬式は無用で遺体は野に捨てろと言い残したのは、現実世界で我が身を含めて全ての物質は無だと考えたからだろう。仏の浄土に行くという往生を前に現世の諸々は皆捨てていくだけだ。
一遍上人は鎌倉中期の僧で時宗の開祖。「伊予の豪族河野通広の子。諡は円照大師。延暦寺で天台宗を学び、太宰府で法然の孫弟子で西山派の聖達を師とする。のち熊野本宮に参籠して霊験を得、名を一遍と改める。念仏札を配る諸国遊行に出て、各地で念仏や踊り念仏を勧めた。そのため遊行上人ともいわれた」(大辞林)。
時宗は「13世紀に一遍の開祖した浄土宗の一派。阿弥陀の救済力の絶対的な強さを説き、信者の信仰のあり方を問わず、称名さえすれば往生すると説いた」(同)。称名を唱えるだけで往生できるとの教えは当時の人々にとって受け入れやすいものだっただろう。さらに「宗主以下僧は諸国を遊行し、名号を記した賦算と呼ばれる札を配り、念仏踊りを行った。広く民衆に浸透し、15世紀に最盛期を迎えたが、本願寺教団の発展などにより、勢力を小さくした」(同)。
念仏踊りとは「太鼓・鉦・瓢などを打ち鳴らして、念仏・和讃を唱えながら踊ること。空也上人に始まるといわれ、鎌倉時代、一遍の時宗派僧侶の遊行時に用いられて全国に流行した。のち芸能化して、江戸時代には女歌舞伎にも取り入れられた。また、盆踊りの源流といわれる」(同)。芸能の源流を辿ると宗教に行き着くことは珍しくない。
「称名さえすれば往生する」という教えが真実なのか客観的に検証することは不可能だ。死後の世界の存在は検証不可能だから、往生が事実として行われるのか、称名と往生に何らかの相関関係があるのか、検証不可能なことばかりで一遍の教えは成り立っている。信じることによって成立する論理であり、世界観だ。検証が不可能だということは、否定も肯定もされないということだ。
江戸時代に品川の東海時で没した沢庵は「私は一介の僧に過ぎない。すでに荒野に捨てた身だから、葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」と言い残したという。現実世界とのつながりを断つことを高僧が言い残したのは、精神世界に深く入り込んで生きた人生だったからだろう。
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