2024年12月11日水曜日

自由と分断

 米国の社会は分断しているとの論調や分析は多く、中には分断の存在を憂うる調子の論もあって、社会に分断が存在することは好ましくないと見られているようだ。確かに、意見の異なる人々の対立が先鋭化して、互いの暴力の応酬に発展したり、2021年の米国議会議事堂の襲撃事件などのように暴動が起きて社会の安定を損なうことは望ましくない。

 社会は様々な思想や信条や心情などを持つ個人の集まりで、思想や信条や心情などは細かく異なる。個人の信条や心情などが異なることが許容される社会でも、政治が絡むと、意見の相違が分断となって現れる。そうした政治的な主張は、各個人の置かれている経済的状況や社会的状況などを反映し、複雑に利害が絡むので妥協することは難しい。

 意見の相違はどんな社会にもあることだろうが、それが分断へと発展するには、①双方の主張が同時には社会に受け入れられない、②一方が勝者となり、他方が敗者とみなされる状況となる、③勝者と敗者の間に相互理解を促す対話が成立しない、④敗者は不満を溜め込み、勝者になるために主張を強める-などの過程を経る。米国などでは勝者と敗者は選挙のたびに入れ替わったりするので、分断は固定化する。

 様々に異なる意見を持つ人々によって社会は構成されているので、社会に分断が存在するのは当たり前だろう。だが、それが政治的な対立に発展するのは、選挙などでの支持拡大を狙って分断が煽られることも一因だ。スポーツの試合などでは、贔屓のチームを応援するだけではなく対戦相手にブーイングしたり、罵倒することも珍しくないが、そうした行動様式が政治運動にも持ち込まれた。

 意見の異なる人々が、対立の激化などが進んで共存・共生できなくなる懸念が現実化すると、社会の分断が問題になる。だが、分断が選挙のたびに現れるだけなら、社会の一体性は保たれよう。そこには選挙に対する人々の信頼が残っている。深刻なのは、選挙が信頼されなくなった時で、主張を実現するためには暴力にしか頼ることができなくなった状況になると、混乱だけが待っている。

 分断があることは、人々が自由に意思表示できる社会では当たり前の現象だが、選挙をしても社会の分断が現れない国々がある。例えば、北朝鮮やロシアや中国などでは、独裁権力を掌握している人物が圧倒的な多数で選出される。社会の分断は選挙結果に現れないが、それは社会に分断が存在しないことではなく、権力に不都合な主張は抑え込まれ、表面化が許されないからだ。

 米国で選挙のたびに分断が現れるのは、嘆かわしい現象ではなく、人々が自由に意思表示できる社会であることを示している。社会がまとまっているのを良いことと考える人は、異論を許さず、他人の考えもコントロールしようとする傾向があり、分断を過剰に問題視する。分断が見える社会は人々が政治的な主張を自由に表明できる社会であり、分断の表面化は民主主義が機能している社会につきものだ。

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