2019年5月2日木曜日

坂口安吾の天皇制批判

 坂口安吾は1946年(昭和21年)に発表した『堕落論』『続堕落論』で天皇制について厳しい目を向けている。例えば、次のようなものがある。

 天皇制は「社会的に忘れられた時にすら政治的に担ぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家たちの嗅覚によるもの」で、それは「天皇制に限るものではない。代わり得るものならば、孔子家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代わり得なかった」だけである。

 天皇制は「日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具に過ぎず、真に実在した試しはなかった」。

 藤原氏や将軍家にとって「彼等が自分自身で天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が先ずまっさきにその号令に服従してみせることによって号令が更に良く行きわたることを心得ていた」。彼等が「天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押し付けることが可能」になる。

 彼等は「天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた」。「それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではない」。軍人は「徹底的に天皇を冒瀆しながら、盲目的に天皇を崇拝」していた。

 「藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた。彼等は真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の道具」とし、「現在も尚、代議士諸公は天皇の尊厳を云々し、国民は又、概ねそれを支持している」。

 「天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念に絡み残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花は望むことができないのだ」「天皇制だの、武士道だの(中略)、かかる諸々のニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。さもなければ、我々は再び昔日の欺瞞の国へ逆戻りする」ばかりだ。

 「政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。天皇制というカラクリを打破して新たな制度をつくっても、それも所詮カラクリの一つの進化に過ぎないこともまぬがれがたい運命なのだ。人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される」。

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