北島三郎の「兄弟仁義」の歌詞に「俺の目を見ろ 何にも言うな」があり、映画なら任侠の世界に生きる主人公が命のやり取りをするクライマックスの場面に向かう時に歌が流れ、相棒も黙って主人公の後に従ったりし、何も言わなくても2人は全てを了解・共有するという状況が描かれる。だが、何も言わなくても常に意思が通じるものではない。
日本では言葉によらない意思伝達が尊ばれ、以心伝心(文字や言葉を使わずに心と心が通じ、意思が伝わること。もとは禅宗の語)が強調されて、言葉による説明などを面倒くさがったりする。以心伝心は日常にも現れ、長年連れ添った夫婦や長年の友人間でアレなどの指示語で会話したりできるのは、状況や経験などを共有しているからだ。だから、状況や経験などを共有していない関係では以心伝心は成立しない。
日本人は言葉によるコミュニケーションをもっと行うべきだというのが加藤周一氏。言葉による意思疎通を軽視する上位にある人は下位にいる人に忖度としての以心伝心を要求したりするが、そうした以心伝心は世界では通用しないと言う。加藤氏の言葉を引用する(適時修正あり)。
「日本で最高のコミュニケーションの理想は以心伝心でしょう。沈黙してもわかるというのが一番いいコミュニケーションである。そうでなければ高度に儀礼的になる」「儀礼的なものでなければ、沈黙の理解というか、禅宗の先生と弟子みたいなもので言葉はいらない。そのどちらかに分化して、その途中の言葉によるコミュニケーションというものがない。限界はあるけれど、その範囲で最大限の意思疎通を図るという伝統が比較的弱いのではないか」
「異民族の接触の多いところでは以心伝心は通じない。一緒に育っていませんから以心伝心ではダメです。他方、単に儀礼的なだけでは本当の意思は疎通しない。あれは非常に丁寧なかたちのコミュニケーションの拒絶でしょう。異民族間のコミュニケーションは、どうしても言葉によらざるを得ない。異民族接触の多い社会では、とにかく筋道を通して相手を説得するということが強くなる」「日本の場合は、共同体内部で暮らしていますし、異民族との接触がない」(「20世紀と放送」内川芳美氏との対談、1997年=『加藤周一対話集⑤ー歴史の分岐点に立って』所収)。
日本における言葉によるコミュニケーションの軽視は、言葉で相手を説得するという行為の軽視として現れ、不適切な発言を批判された人が「真意が伝わらなかった」などと、相手や周囲が自分の言葉を正しく理解しなかったという責任転嫁にすり替わったりする。
言葉をつくして説得するという習慣が疎かな日本では、言葉の定義がなおざりで、欧米発の新しい概念が適切な日本語に翻訳されることが少なくなり、カタカナ語として増殖するようになった。意味がぼやけているカタカナ語が反乱する状況では正確な意思伝達には限界があり、以心伝心は危ういコミュニケーションとなる。
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