「可能性がある」との言葉をニュースなどで見聞きすることは珍しくないが、この言葉は未来予測を示すものだ。特定の場所について専門家が「再び大きな地震や津波を引き起こす可能性がある」と述べたーなどと使われるが、その可能性の大小について説明されることは少ない。未来予測は、起きてはいないことの予測であり、根拠が必要だ(根拠がない予測は、予言だ)。
大きな地震が起きる「可能性がある」と言われると、近いうちに大きな地震が起きると受け止める人もいるだろう。視聴者や読者の不安を煽って番組や記事への関心を高めるのは商業メディアの常套手段だから、不安を煽るには好都合な「可能性がある」が多用される。雨が降る「可能性がある」なら傘を持てばいいが、大地震が起きる「可能性がある」とだけ言われては不安が増すだけだ。
科学的に「可能性がある」と断定するためには、確率を示すことが必要だ。科学では他者による検証が不可欠だから、データなどに基づいて、示された確率の数字が妥当かどうかを計算し直す。地震が起きる可能性が「70%ある」とされたが、検証すると30%とか50%とか当初の発表と異なる数字が弾き出されたなら、当初の発表を修正しなければ科学的に正しいとは言えない。
確率の数字は1%から100%まで広がる。雨が降る可能性が10%なら傘を持つ人は少なく、80%なら多くの人が傘を持つように、確率の数字によって人々は判断する。「可能性がある」だけでは予言と同類であり、根拠もエビデンスもない占い師の御託宣と同じだ。
例えば、16頭立ての競馬のレースでは16頭の全ての出走馬に勝利の可能性があり、全ての出走馬に3着以内に入る可能性がある。だから、全ての馬に本命マークをつけ、全ての馬に対抗マークをつけるのは間違いではないが、それでは予想は成り立たないだろう。全ての馬に勝利の可能性がある中で、出走馬の状態や調子を見極め、出走馬の中での優劣を判断し、競争力に順位をつけ、時には期待を込めることで予想は成立する。
予想は未来予測である。多くの競馬ファンは自分なりの予想を行うのだが、そうした予想は、当たることもあれば外れることもある。専門紙やスポーツ紙の予想が成り立つのは、「そうした見方もあるのね」と多くのファンが予想が決定ではないことを了解しているからだ(確率は示されない)。そして、無印の馬が3着以内に入って高配当になったりすると、ファンは予想(未来予測)は難しいと痛感する。
テレビや雑誌などに頻出する「可能性がある」も当たることもあれば外れることもある。だが、大きな地震が起きる「可能性がある」などとの報道は、地震が起こらない日々が続くうちに、やがて忘れられ、専門家もメディアも「可能性がある」と不安を煽ったことに対して責任を取らない。責任を問われず、すぐに忘れられるから専門家やメディアは「可能性がある」と不安を煽ることに励む。
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