2025年2月26日水曜日

ドイツ・ファースト

 第一次大戦に敗れたドイツは巨額の賠償(1320億金マルク。当時のドイツ国家予算の20倍以上)を課された。政府が賠償金の支払いに充てるために紙幣の発行量を増やしたためインフレが進み、やがてハイパーインフレに陥った(マルクの価値は1兆分の1に下落)。これは人々の生活を直撃し、不満が政治体制へと向かった。

 1929年の世界恐慌はドイツ経済にさらなる打撃をもたらし、失業者が増え、600万人に達した。こうした状況では政権与党は選挙で弱い。1930年の総選挙でナチスは第2党になり、1932年に第1党となって翌1933年1月にヒトラーが首相に就任した。同2月にドイツ共産党を非合法化し、同3月に全権委任法(ヒトラーに4年間の全権委任を認める)や政党新設禁止法を制定してナチスの独裁体制を固めた。また、労働組合の解散、共産主義やユダヤ人の著作の焚書などを行った。

 1934年8月に大統領の職権をも有する総統に就任したヒトラーは、軍に対する指揮権を獲得して個人独裁体制を固めた(投票率95.7%の国民投票では89.9%の賛成で承認された)。同10月には国際連盟とジュネーヴ軍縮会議から脱退し、1935年1月にザール地方をドイツ領として復帰させ、同3月に徴兵制を復活させて再軍備を進めたが、英仏は動かず黙認した。

 ドイツ国内では、労働組合活動や思想信条や政党活動の自由が失われた一方、ナショナリズムを煽り、ユダヤ人を敵視する大衆宣伝が行われ、アウトバーン建設などの公共事業で雇用が増えて経済が好転し、社会に高揚感が高まった。この高揚感は、それまでの政治に対する批判と民主主義にとらわれない指導者(ヒトラー)の誕生を歓迎した人々によってもたらされたものだ。

 こうした独裁体制は親衛隊やゲシュタポなどによる厳しい国内監視体制に支えられ、経済団体や産業組織などの指導部はナチスに同調する人物群に入れ替えられるなどの統制強化を伴った。1935年9月にはニュルンベルク法を制定し、ユダヤ人を帝国市民とせず、ドイツ人との結婚や性関係を禁じ、ユダヤ人の選挙権や政治的な権利は剥奪、公職就任を禁止し、公共的な場所(庭園・劇場など)への出入りが禁止された。

 この独裁体制はドイツ国民の支持を得た。それは、ヒトラー体制が①ボロボロになっていた経済を好転させた、②再軍備に転換し、外交で自国優先の主張を貫くなどヴェルサイユ体制に風穴を開けた-とともに、政党が多すぎて機能しない議会と弱体政府に倦んでいた人々の、決断力と実行力のある強いリーダーを求める心理に応え、「強い」ドイツに向けて歩み出した実感をもたらしたからだ。

 様々な「ドイツ・ファースト」政策を実行することでヒトラーは人々の支持を得て強いドイツを実現させたが、その先に待っていたのは2度目の世界大戦と敗戦だった。強い国になることを望む人々がいて、強い国にすることを掲げる政治家に権力を担わせる。だが、権力を握った政治家の考える強い国と、人々が望む強い国が必ず一致するとは限らない。自国ファースト政策には落とし穴がある。

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