2025年6月18日水曜日

対話と攻撃

 社会の分断が激しくなった時、最も大きい弊害は対話が成り立たなくなることだろう。分断が激しくなると、互いに自説に固執し、相手を否定することが自説の正しさを示すことであるかのような誤解が生まれ、相手を攻撃することに熱心になる。相手を否定したところで自説の正しさが客観的に証明されるわけではない。

 相手の主張を理解することで対話は成立する。相手の主張を理解することは相手の主張に同意することではない。相互の主張の違いを認識することから、相違点を浮かび上がらせることができ、どこは同調できるか、どこが食い違うのかをはっきりさせることで対話が機能し、相互の理解が深まる。

 分断が深刻化し、対立が激しくなると、相手の主張を理解することは「負け」であるかのような雰囲気が生まれ、相手の主張を理解することは放棄される。対話に勝ち負けはないが、対立が激しくなると感情が優先し、勝ち負けの意識が出てくる。スポーツならば、勝ち負けはあっても試合終了後に選手は友好的になることもできようが、社会の分断で対立している人々の間に「スポーツマンシップ」は希薄だ。

 対話ならば相手を説得することが可能になるが、相互に攻撃し合うならば、説得は不可能だろう。相手に対する説得と相手に対する攻撃は共存できない。説得が放棄され、対話の場が自説を展開するだけの場になると、相互に攻撃し合い、時には相互に憎み合う。聞く耳を持たない相手に対しては、どんな言葉も届かないだろう。攻撃し合うことで互いに感情的になり、余計に相手の言葉を理解することが難しくなる。

 分断に対して寛容の必要性を説く論調がメディアに現れる。だが、寛容さを失った人々が激しく対立し、分断が生じているとすれば、寛容が必要だとの論は正しいのだろうが、現実には無力だ。寛容さが存在すれば、承服しがたい相手の主張を冷静に聞き、反論することで議論が成立するが、相互に言い合う状況では、声の大きさや時には相手を罵倒することが優先される。

 分断が先鋭化すると、対話を求めることは弱さの現れであるとされたりする。だが、相手の主張を全否定することで自分の主張を正当化する行為は、対話における主張の検証を拒否しているとの弱さを内包している。言葉の応酬で相手を屈服させれば勝ちだとの「力の論理」が持ち込まれ、相手の主張を否定することでしか成立しない主張が盛んになる。

 主張は検証されることで「磨かれ」る。異論がぶつかり合う場である対話は主張が「磨かれ」る場であるが、互いに言い合うだけでは主張が「磨かれ」ることはない。分断が深刻になればなるほど対話の重要性は増すのだが、同時に対話が軽んじられ、声高に自説を主張することが重視される。行き着く先は、分断が亀裂へと広がり、憎み合い、殴り合い、傷つけ合い、共存が放棄されるしかないだろう。

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