批判主義は哲学では「①批判的精神によって物事に対応する思想傾向、②人間の認識能力の吟味によって認識を可能にさせる条件・限界などを明らかにし、理性の徹底的な自己認識を媒介にして、さらに諸対象の吟味を貫徹しようとする」とされるが、一般には「自分の意に沿わない物事や意見を否定したり、人を含む対象の短所・欠点などを言い立てる行為」だ。
批判には根拠がいるが、根拠が主観だけなら、「言わせておけ」と周囲は聞き流す。批判の根拠が抽象的な理念だったりすると、現実は理念とかけ離れていたりするので、いくらでも批判することができるようになる。理想や理念を根拠にすることで、現実のあれこれ(人間を含む)は欠点だらけとなり、好きなように批判できる。
対象に対して好きなように批判していた人や組織が逆に批判されると、黙ったりすることがある。異論に対する寛容を主張する人が批判に対して不寛容になったり、包摂を説く人が自分に対する批判を包摂することができなかったりする。相互批判は重要なのに、批判するだけで自分は批判されないという歪んだ心情はどのように生じたのか。佐伯啓思氏の著作から引用する(『神なき時代の「終末論」』。適時省略あり)。
「承認や尊厳を求める闘争、つまり自由を求める闘争というリベラルの思想は、やがては、自由に対する一切の障害を排除し、あらゆる抑圧や不合理からの解放を主張し、いかなる差別的取り扱いにも苦情を申し立てるという一種の狂気じみた自動運動に行き着くであろう。抑圧からの解放は永遠に続く。しかし、この解放の自動運動は多大なエネルギーを必要とする」
1970年代前後から「家族・学校・共同体・企業等の集団・社会慣習・生活上の規律など、個人の自由に対する制約に対して絶えず批判し続けるという徹底した批判主義が出てきた。それは、社会秩序を構成する既存の制度的枠組みを自由への抑圧として批判した。かくて批判主義はリベラルの鬼子である」
「確かに批判が有効な局面もあり、そういう時代もあったし、むしろ批判こそが建設的である状況もある。批判そのものが間違っているわけではない。しかし、批判主義は決定的な欺瞞を内包している。批判主義は、その批判を決して自らには向けない。自由や平等や権利といったリベラルの価値そのものへ批判を向けることはない。懐疑の目を向けることもない」
「批判主義は常に敵を外部に求め、自らのあり方を問おうとしない。自らの批判のみを正義とみなし、批判に対する批判を受け付けなくなる。その結果、批判主義こそがリベラルを裏切る。その理由は、もともとリベラリズムが胚胎した自家撞着にあった。内に潜む矛盾の故に、リべラルな価値がその内部から崩壊していくのである」
権力は常に批判されることが必要で、権力に関わる人や組織には、批判される勇気が求められる。だが米トランプ政権のように、批判されることを受容できない人や組織はリベラル勢力の批判に対して、おそらく何らかの被害者意識を有し、攻撃的な批判を続ける。批判主義に批判主義で応酬しているだけなので、荒涼とした不毛の議論が続く。
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