倫理とは「行動の規範としての道徳観や善悪の基準」で、道徳は「社会生活の秩序を保つために、一人一人が守るべき行為の基準」(新明解国語辞典)。倫理には「社会生活で人の守るべき道理。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。人が行動する際、規範となるもの。社会で人が生きていく上での守りごと」などの解釈もある。倫理は主に個人が持つ判断基準のようだ。
道徳には「人が善悪をわきまえて正しい行動をするために守らなければならないもの。個人または家族などの小さなグループに用いられる日常生活の行動基準」などの解釈もある。道徳は主に集団が共有すべき判断基準のようだ。そこから道徳については、従わない個人に対して集団に属する人々から「圧力」がかけられたり、集団への帰属意識が希薄な個人なら「圧力」を感じたりする。
個人が持つ倫理観は、経験や教育などで属する集団の文化や伝統などを受け入れることにより形成される。キリスト教やイスラム教などの影響が強い集団で育った個人の倫理観は宗教の規範の強い影響を受けるだろう。倫理観は集団における個人の振る舞い方の基準となり、その集団において倫理的に正しくない振る舞いを行った個人に対しては時には罰が与えられたりもする。
日本には豊かな文化や伝統があるが、キリスト教やイスラム教のような強く社会を律する宗教はなく、宗教の影響は弱かった。仏教の影響はあり、死生観や葬送儀礼などに影響を与えているが、人々の日常の行動を左右するほどの影響力はなかった(江戸時代に仏教が政治の統制下に置かれ、キリスト教が禁じられ、宗教は社会において形骸化するとともに人々の精神に対する影響力を喪失した)。
日本人の倫理観はどう形成されるのか。加藤周一氏は「いまの日本には、倫理的な行動に影響を与えるものは何もないのではないか。仏教の力は江戸時代に弱くなり、明治以後に弱くなって、戦後にはもっと弱くなる。キリスト教は日本の人口の割合から見ると、あまりにも少数で、日本人全体の倫理的な価値の基準にはなりえない。儒教の力も弱くなっている。(儒教は)家父長的な家族構造を前提としているからです。家族の構造が変わってくれば当然、影響力は衰える」とし、「日本は、倫理的な背景がないまま、21世紀もそのままズルズルというわけにも行かないのではないか」(「漢字文化圏の歴史と未来」一海知義氏との対談、2000年=『加藤周一対話集④ーことばと芸術』所収)。
日本人が持つ倫理意識が弱いとの見方は以前からあり、近代的な自我意識の弱さと倫理意識の弱さが関係しているとの指摘もある。確固とした倫理観を日本人が持たなかったのは、属する集団に同調することを優先し、情緒を優先する性向があり、現実追認という現実主義傾向が強い一方で、宗教などによる現世を離れた超越的な価値の存在が希薄だったためかもしれない。
日本人が持つ倫理意識が弱いことが事実なら、それは日本が特定の倫理観を持たずとも生きていくことができる社会であるということだ。キリスト教やイスラム教などの「しばり」が強い社会ではないから、日本は欧米やイスラム圏などとは全く異なる文化を生み出したと解釈すると、いまさら何かの倫理観を持たなければならないと慌てることもない。
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