日本は歴史的に外来の文化を取り入れてきた一方、独自の文化を育んできた。頑なに独自の文化に固執することが少なく、日本独自の文化と外来文化との対立・衝突は限定的で、うまく外来文化と共存してきた。外来の文化の流入が大量の人の移動を伴わず、日本人の主導によって「欲しい」部分だけを取り入れてきたからだろう。そのあたりのことを加藤周一氏は次のように語る(「中国の屋根の反り」1979年=『加藤周一セレクション④』平凡社ライブラリー所収。適時省略あり)。
「日本の文化的伝統は枠組みと領域において、中国・西洋の文明の伝統とは根本的に違う。日本精神は体系化に向かわず、抽象的合理性を好まない。自然に対して自己を主張することにではなく、自然に従って生きることに文化の眼目を認める」
「このような日本文化が中国文明の体系と対決したことはない。両者の接触は、補足的な関係の日本側での敏捷な利用ということに尽きる。補足的な関係において、相手の長を採るのに当方の長を捨てる必要がない。一方を捨て他方を採る思想的決断の問題ではなく、便宜に従う戦略上の問題に過ぎない。大都市の計画や大寺院の建物の配置は、日本側にないから唐の例に従う。住み慣れた住宅は日本で発達した日本流」
「同じことは西洋文明に対してもいえる。19世紀後半の西洋と日本の文化は、対決したのではない。根本的に違い、互いに補足的な二つの文化が出合ったのであり、西洋側はそのことを理解しなかったが、日本側はその相互補足性を見抜いた。日本において近代化が、西洋文化の圧倒的な影響のもとに中国の場合よりも早く成功したのは、そのためである」
「日本の対外関係の歴史は、補足的な使い分けと折衷主義の歴史であった。中国の対外関係の歴史は、対決と拒否または回心の歴史だ。西洋思想への回心は容易におこらず、民族的水準では文化大革命において徹底した。毛思想は折衷主義ではない。マルクス・レーニン主義の原則・枠組みを全面的に受け入れ(比喩的にいえば回心)、内容を中国に固有の条件との関連において、あらためて定義した。中国共産党はマルクス主義の長を採り、短を捨てたのではない」
「補足的関係において相手をみることは、相手を部分において見ることである。相手の体系の全体と対決する機会がなければ、相手の全体と理解する機会もない(補足的関係が成立したのは、日本側に体系的思考の習慣がないからだ)。
部分的現象は体系から必然的に導き出されるものであるから、体系の理解を前提としないときに相手側の部分は偶発的にみえる。その部分を、相手側の全体との関連においてではなく、こちらの全体との関連において意味づけるほかはなくなるだろう。何が我々の役に立つのか。そういう考え方は、相手方の体系の理解を遠ざける」
「対決がないということは、大きな長所を意味すると同時に大きな弱点をも意味する。対決がなければ、真の接近もない。中国も西洋諸国も日本からみれば、原理的に不可解な仕組みで動いている。中国と西洋諸国には、対立があれば接近もある。ものの考え方の枠組みは似ているのであり、文化の基本的な原理は異質ではない」
歴史的に世界で人々は行動範囲を広げ、異なる文化の摩擦を各地で生じさせ、優位な文化による制圧は珍しくはなかった(例えば、植民地采配)。外来文化を取り入れつつ日本が独自文化を保つことができたのは、外来文化の部分を日本人が主体的に取り入れてきたからだと加藤周一氏は指摘する。主体性を維持することで外来文化に圧倒されることはなかった。
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