2025年8月16日土曜日

精神論にすがる

 気持ちの持ちようで状況がそれまでとは違った様相に見えることはある。だが、それは状況が変わったのではない。「成せば成る」とか「やる気があれば何でもできる」「願えば必ず叶う」「努力すれば夢はかなう」などの精神論は根強く残り、「やる気や根性を見せろ」などと組織で管理者が部下などを鼓舞することは廃れていないともいう。

 精神論がはびこるのは状況の分析がおざなりで、有効な対策を見いだすことができていないからだ。対人営業なら強い精神で臨めば相手を圧倒し、優位に交渉を進めることが可能になる場合があるかもしれないが、そういう交渉スタイルは組織相手では効果がないだろう。状況を変えることができず、精神論にしか頼ることができなくなって「負けられません 勝つまでは」などと国中で精神論にすがった過去が日本にはある。

 状況を変えることができないから、「すべては気持ちの持ち方次第」だと精神主義に傾く。合理的な思考や論理の客観性を軽視する風潮が社会に根強く存在すると感情論が優勢になり、精神論や精神主義がはびこる。日本における精神主義について加藤周一氏が論じた(「日本文化の雑種性」1979年=『加藤周一セレクション⑤』平凡社ライブラリー所収。適時省略あり)。

 「日本精神を説く人が純日本風の電車や選挙を説くことはない。そんなことは不可能だからであり、日本風といわれるものは常に精神的なものばかりである。日本の伝統文化を讃える当人が、自分の文章を毛筆で書かず、和綴じではなく西洋風の本にこしらえる」

 「政治、教育、その他の制度や組織の大部分が西洋の型をとってつくられたものだ。精神だけが純日本風に発展する可能性があると考えるのは、よほどの精神主義者でなければ難しいだろう。日本主義者は必ず精神主義者となり、日常生活や下部構造がどうあろうと、精神はそういうものから独立に文化を生み出すと考える。ところが、立論に欠くことのできない概念の多くが西洋伝来の、和風からは遠いものである。自由や人間性、分析、綜合などの概念を使わずに人を説得する議論を組み立てることは、議論の題目によっては不可能であろう」

 「日本の文化の雑種性を整理して日本的伝統にかえろうとする日本主義者の精神がすでに翻訳の概念によっって養われた雑種であって、翻訳の概念を抜き取れば忽ち活動を停止するにちがいない」

 「日本の文化は根本から雑種であるという事実を直視することを避け、観念的に日本文化を純粋化しようとする運動は、近代主義にせよ国家主義にせよ、枝葉の刈り込み作業以上のものではない。その動機は劣等感であり、劣等感から出発して本当の問題を捉えることはできない。本当の問題は、文化の雑種性そのものに積極的な意味を認め、それを、そのまま活かして行くときにどういう可能性があるかということであろう」

 日本主義は外国を意識したところから生じ、外国に対抗する何かを構築しようとする。だが、その構築の方法論が外国の影響下にあるので、外国を否定して日本の優位性を訴えても「借りもの」の議論でしかないことを加藤氏は指摘する。外国の影響を受けていない日本人が珍しい状況では、精神主義や精神論は感情や情緒に引きずられる。

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