1945年の敗戦以来、日本が直接に関わった戦争はないが、明治以降、日本の軍隊が関与した戦争が続いていた。日清戦争や日露戦争、第1次大戦などほぼ10年おきに日本は参戦し、負けなかった。だが「勝ち戦」であっても、死傷する将兵は少なからず存在し、肉親を失った人々は悲嘆にくれただろう。それらの戦争の記憶の伝承の重要さを説く声は現在ではほぼない。
国内が戦場になった戊辰戦争でも多くの将兵が死傷し、戦禍に巻き込まれた人々も多かっただろうが、現在では戊辰戦争は歴史の1場面の扱いとなった。人々の記憶は様々に語り伝えられたのだろうが、それらを今なお語り伝えるべきだと主張する声は皆無だ。戊辰戦争に関わった生存者はほぼいなくなり、語り継がれた記憶は歴史の中に埋もれ、記憶の伝承は終わった。
戦禍に巻き込まれた日常や戦場での悲惨さや苦しみなどを具体的な体験として伝えることは、戦争の愚かさを直感的に人々に理解させ、平和の尊さを再認識させるために効果があるだろう。しかし、個別の具体的な体験は戦争の細部を伝えるものであり、戦争の全体像ではない。
体験者の記憶に偏重して戦争が語られると、「戦争は嫌だ」との感情に偏った戦争観が育まれる。戦争は愚かなことであり、廃絶されるべきものだ。だが、第二次大戦後も世界各地で戦争は繰り返されてきたし、ロシアやイスラエルの武力による領土拡大が続き、国際社会が座視するだけの現在、世界平和への歩みが後退していることは明らかだ。利害が衝突した諸国や、領土拡張を狙う諸国が軍事力を行使することはこれからも続く可能性が高い。
戦争がなくならないという現実に対して、戦争は嫌だとの感情論だけでは無力だ。戦争は嫌だとの感情が優先すると、現実に世界で起きている戦争を「嫌だ、嫌だ」と否定することで済ませ、現実の戦争について知ること・見ることを軽視する。外国で起きている戦争などに関心を向けない人々は各国に珍しくないだろうが、それも世界平和の気運を弱めている。
世界で「戦争はなくならない」という現実を多くの人々は知っており、戦争の廃絶は不可能だと思っているのかもしれない。だから、1945年以来、戦争に巻き込まれたことがない日本で、日本人が体験した「負け戦」の記憶の伝承が重視される一方、世界で起きている戦争に対する抗議活動は弱い(ベトナム戦争に対する反戦活動は例外か)。日本だけが戦争に巻き込まれなければいいと考えるなら、日本人が体験した戦争だけの記憶の伝承が戦争嫌悪のために役立つだろう。
自国民が体験した戦争体験を特別のものとして扱うのは日本に限ったことではない。これは国民・民族としての記憶の形成過程だろうが、連合国諸国のように勝者としての戦争の記憶であるなら、戦争を肯定的に捉えるだろう。日本のように敗者としての記憶であるなら、「戦争は嫌だ」との思いを掻き立てるだけにとどまる。
0 件のコメント:
コメントを投稿