2025年10月22日水曜日

被害者意識で正当化

 アクション映画では、クライマックスシーンでの主人公の暴力を正当化することがストーリー展開の主軸となる。敵がいかに邪悪であるかや、人々が苦しむ様子や敵の暴力を予期して怯える様子が描かれ、時には主人公が襲われて危うく逃れたりもする。観客は主人公の側に共感するように誘導され、主人公が秘めていた力を解放して暴れ回り、敵をなぎ倒すクライマックスシーンに喝采を送り、満足する。

 かつてのヤクザ映画では、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ」主人公の怒りが爆発して、仁義を踏みにじる性根が腐ったヤクザを次から次と切り捨てるのがクライマックスだった。また、異星人の襲来や地球征服を目論む悪人どもの動きに気づいた主人公が、「地球を救う」「人類を救う」などの大きな使命感を持ち、異星人や悪人どもに立ち向かい、何度もの危機をくぐり抜けて異星人や悪人どもを倒すというSF映画でも、クライマックスでの主人公の暴力を正当化するのがストーリーだ。

 スクリーン上で主人公が敵をばったばったと殺そうと、映画が終わって外に出れば、そこは治安が保たれた空間で人々は平穏な日常に戻る。誰かの暴力が正当化されて、その誰かが敵と見る人々を殺すことは許されず、殺人などの暴力は社会的に禁止され、そうした暴力を行使した人は犯罪者として扱われる。殺人などの暴力を行使した人には暴力を「やむなし」とする感情や論理があるのだろうが、どんな理由があろうと殺人などの暴力は許されないことで社会の秩序は保たれている。

 現実の世界では、多くの人々を食い物にしたり法の網をくぐり抜けたりして自分たちの利益だけを追求し、時には隠れて無慈悲な暴力を振るう極悪人がのさばっていたりする。映画の主人公のような、邪悪な連中をなぎ倒すヒーローが現れないのは、相手が極悪人であっても私的な暴力の行使は犯罪を構成するからだ。どんなに正当化しようと、極悪人という人間に対する暴力は許されない。

 だが、ウクライナやイスラエルなどに見られるように、戦争という国家による暴力には自国を正当化する言説がつきものだ。自国を被害者と位置付け、戦争を始めたことを「やむを得なかった」判断だったとして正当化したり、敵が先に攻撃してきたので防衛行動を余儀なくされたとか、敵側の武力侵攻が差し迫っていて「攻撃を受けてからでは遅い」として戦争を始めたことを正当化する。

 国際社会に対して国家は、正当な反撃であるとか自国防衛のための行動であると戦争を正当化するとともに、国内に向けては政権を支持するように世論誘導する。つまり政権によるプロパガンダが盛んに行われ、愛国心を鼓舞された人々は「国を守るために今、戦うことが必要だ」と誘導されて主張し始める。かくて戦争は愛国心の発露の対象となる。

 映画のヒーローは被害者意識を振り回したりしないが、現実世界の国家は被害者意識を自国の正当化に活用する。各国の主張を客観的に評価する国際機関が不在である現在、戦争を始めるためにも、外交で優位な立場に立つためにも各国は被害者意識を活用して自国の主張を正当化する。ヤクザ映画の主人公は暴力を振るった後、素直に刑に服したりするが、米国製アクション映画などの主人公が暴力の責任を問われることはない。何やら現実世界で暴力を正当化している諸国家に似ている。

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