夏の猛暑や冬の寒波などに愚痴を言わず、その時々の季節の変化を楽しむ人や、小さな利害にこだわらない人、欲得に支配されていないような人などは俗に「悟った人」と冷やかし半分に呼ばれたりする。おおらかで達観した雰囲気が自然に滲み出しているような人が「悟った人」と見なされたりする。
悟りや悟るは日常でも使われる言葉だ。本来は仏教用語で、生きることの意味や世界の構造など「真理」を理解・会得することを意味するが、そこから、「様子を悟る」「相手に悟られないように」「死期を悟る」「逃げられないと悟る」「悟りの悪い人だ」「悟り澄ます「ことの重大性を悟る」などと、状況を正確に認識することを悟る・悟りという言葉で表現するようになった。
仏教の修行者にとって悟りは最高段階の精神状態なのだろうが、悟った人が出現したとしても、その悟りは主観的な確信かもしれない。悟りは精神世界の出来事なので客観性を担保することは簡単ではない。修行者の師にあたる人が悟りを認定するそうだが、認定する根拠にも客観性は乏しいだろうから、悟ったかどうかの確証はない。つまり悟りの実態はぼやけている。
加藤周一氏は禅家の悟りに共通点があるという前提から、悟りについて語る(「一休という現象」、1978年=『加藤周一セレクション②』平凡社ライブラリー所収。適時省略あり)。
「悟りは、認識論的には主客合一であり、存在論的には、非固体化された自己と一体化した世界を究極の現実とする。その唯一の現実とは、存在と無、および時間の過去・現在・未来を超越する。
それは、この世界の外にあるのではなく、この世界のあるがままの多様性に現象として現れる。その意味で『一は多であり、多は一である』。仏教的用語で表現すれば『性相不二』であり、本質(究極)と現象(相)とは別ち難い。
また、存在と無が超越されるから『不生不滅』であり、『色即是空、空即是色』である。時間も超越されるから『刹那即久遠、久遠即刹那』であり、比喩的にいえば『因果脱却』である。
しかし、本質における『因果脱却』は、現象における『因果輪廻』と表裏相伴わなければならない。前者を知って後者を知らなければ、それは『因果撥無』の禅で、悟りの落し穴である。前者を知って、同時に後者を知ることの比喩的な強調が『花紅柳緑』である--この辺りのところが禅の悟りにも共通の枠組みだ」
世界をあるがままに受け入れることが悟りには欠かせない認識のようだが、世界をあるがままに受け入れることは受動的な生き方ともなる。自意識を放棄するなら世界をあるがままに受け入れることは容易になるだろうが、自意識を放棄して得られる悟りとは何か。おそらく個を消滅させたところに「真理」があるとの主張だろう。
※悟るとは「①迷いからさめ、真理を会得した境地に到達する、②隠されていた事情に気がつく」(新明解)、「①表面には表れていない物事の道理や状況を理解する、②自分にかかわる事柄に気づいて、それを運命として受け入れる、③(仏教で)欲望・執着・迷いなどを去って真理を会得する」(大辞林)。
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