何かについての思い込みは誰にでもあることだが、その思い込みは正しいこともあれば間違っていることもある。「それ、違うよ」などと他の人から指摘されても、思い込みが強かったり激しかったりすると、ムキになって反論したりする。こうなると、その思い込みは修正されず、逆に強化されたりもする。自説に固執することが自分の尊厳を保つと勘違いすると、「話が通じない人」とみなされよう。
他の人から指摘されて、思い込みを修正できる人もいる。思い込みの程度が軽かったり、自説に固執しない人は、思い込みを修正でき、場合によっては捨てたりもできる。修正したり捨てたりするには、自分の思い込みを絶対視せず、客観視する姿勢が必要だ。思い込みに過度にとらわれない姿勢があるから、他の人からの指摘に素直に反応することができる。
東北など日本各地でクマの市街地や集落での出没が相次いでいるが、クマを駆除した自治体に対する「クマを殺すな」「捕獲して山へ戻せ」と抗議する電話などは減っているという。クマの出没事例が連日報じられ、襲われた人が死傷した事例も少なくないことから、抗議電話などをかけていた人々が、クマの凶暴さや恐ろしさをやっと実感し、理解して抗議行動をやめたのだろうと見られている。
ぬいぐるみなどでクマは人気があるという。ぬいぐるみのクマは親しみやすく愛らしかったりするが、現実のクマには親しみやすさも愛らしさもない。都会の中だけで暮らし、自然の中の野生動物など見たこともない人々が、イメージで野生動物をとらえ、環境保護や野生動物保護は崇高な理念だなどと思い込んだりしていると、現実認識が歪むだろう。
抗議をやめた人は、以前の抗議が誤りだったと判断したのか、クマ駆除に賛成一辺倒な世間の雰囲気に黙っただけなのか、クマによって死傷する人々のことを知りクマの恐ろしさを実感したのか。野生のクマをむやみに殺すことと、人里に現れて人間に危害を加える可能性が大きいクマを駆除することは別の問題だ。そのことに気づいたから抗議をやめたと思いたいが、「クマちゃん、かわいそう」との思い込みを維持したまま黙っただけの可能性もある。
「野生のクマは絶対に保護すべきだ」との思い込みは、人間が襲われる事例が相次ぎ、野生のクマと人間は共生できず、棲み分けるしかないという現実によって否定された。「クマは危険生物だ」という事実を認識していれば、「クマを殺すな」などという思い込みは生まれなかっただろう。情報不足や思慮の浅さなどが思い込みを生じさせるとともに、思い込みの自力での修正を困難にしている。
思い込みは自分の判断が正しいと過信するところから生まれる。自分の思い込みが間違っていたと気がつく経験を重ねることで、自分の思い込みを絶対視せず、客観視できるようになる人もいるだろう。客観視するには、正誤や善悪の基準が複数あると心得て、新たな情報や見解を吟味することを軽視しないオープンな心構えが必要だ。
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