2026年1月24日土曜日

予言と運命

  例えば、「あなたの今後1年には、思ったようにいかなかったり、辛い思いをしたりすることがあるでしょうが、楽しいことや嬉しいこともあります。曇りや雨や雪の日があるでしょうが、必ず晴れる日があるでしょう」という予言は必ず当たる。その人の未来の体験を言い当てている。だが、そんな予言に感心し、ありがたがる人はいないだろう。

 小学生ほどの子供に向かって、その将来を「君は大金には縁がないだろうが、真面目に働けば小金には困らず、生活に苦労することはないだろう」とか「誰にでもチャンスはある。そのチャンスを君が逃さず、しっかり掴むことができれば君は成功する」などの予言は、多くの人に当てはまる言葉であり、予言というより激励の言葉だ。

 予言は「未来は決まっている」という前提で成立する。本人が何を考え、どう生きようと、人の一生はあらかじめ決まっているコースをたどると信じるが、そのコースを本人は知ることができない。だから、そのコースを知ることができるという人の予言に頼る。真偽を疑う人なら、そもそも予言などに見向きもしないだろう。

 人の一生があらかじめ決まっているコースをたどるものなら、個人の自由意思とは何かという問いが生じる。人生を自力で切り開いて生きることが、親や周囲の言うがままに受動的に生きることと変わらないことになる。どうせ決まっているのなら、無理に頑張らずに、楽して生きることを選ぶ人も出てきそうだが、そうした選択も決まっていたことだとすれば、人は皆、操り人形だ。

 決まっているコースについても、細部まで全てが決まっているのか、主要な出来事や大きな体験だけが決まっているのか、さらには、自由意思で変えることができる部分があるのか、ないのか-など、人生は決まっているという範囲の解釈次第で、人の未来をどのようにも描くことができるので、予言は人によって様々に変わってくる。

 運命を信じる人ならば、予言は可能だと考えたり信じたりすることに抵抗がないだろう。運命という言葉も、人の一生は定められているとし、人生における幸福や不幸との巡り合わせなどを納得するために便利だ。だが、運命を予知することは難しいらしく、何かが起こった後で感じるものが運命のようだ。

 占いは「当たるも八卦 当たらぬも八卦」だが、予言も同じだ。人の一生はあらかじめ決まっているコースをたどるのか運命があるのか検証は不可能で、未来が決まっていなくても予知能力を持った人なら、察知できるので予言は可能だとの考えもある。だが、その予知能力も検証は不可能だ。何かの不安を感じていたり、辛さや苦しさなどにとらわれた人の心の隙間を埋めるためには、予言や運命は役立つのだろう。

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